2017.05.15 難解さを楽しむ
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国立国際美術館で開催されている「ライアン・ガンダー ― この翼は飛ぶためのものではない」という
展覧会を観に行ってきた。ライアン・ガンダーとは「誰だ?」
作者は、1976年イギリスに生まれ、母国とオランダで美術を学び、2000年代初頭から世界各地で
個展を開催するとともにドクメンタなど著名な展覧会にも参加してきたコンセプチュアル・アーティスト。
日本では初個展だそうだ。いやー、コンセプチュアル・アートちゅーのは本当に難解じゃのー。

まず、「コンセプチュアル・アート」ちゅーのはなんぞや?という話ですが・・・・
Weblio 辞書によると、1960年代以降の現代芸術の潮流の一。作品における物質的側面よりも観念性・
思想性を重視し,記号・文字・パフォーマンスなどによる表現を目指す芸術。・・・だそうな。
まあ、ワタクシが最も尊敬する芸術家、マルセル・デュシャンがそうですわな。だから、この作家もこの
流れの中にいるわけですから、ワタクシは即座に「面白かったよー」とか、「良かったよー」という感想を
述べるべきなのでしょうが、実はそんなに簡単に理解できない。つまり、わからない。わからないから、
事前に入手したテキストに書かれている「題名」を確認しながら作品を見る、という非常に時間をかけて
ゆっくりと観ないと、その「良さ」というか作者が言わんとしていることがこちらに伝わってこない難しさ。
仮に、題名を知ったとしても相手は外国人。日本語の題名は「翻訳」だろうから、奥に潜む真意のほども
すべてわかるわけではない。情けないのー。(翻訳本を読んでいるときの違和感に似ている)

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デュシャンも初見ではなーんもわからなかった。「こいつは何かおもしろいこと考えているぞ」という曖昧な
興味から、自伝や研究本を読んだり、今まで日本で開催された回顧展やら公立美術館にある所蔵作品を
何度も見て、やっと自分なりにデュシャンの脳みその中を解釈したような気になっている。だから、この作
家の作品も今回の展覧会だけじゃ、なんか消化不良な感じ。かといって、これからも注目したいか、といえ
ば、残念ながらそうでもない。そうでもない理由は、こっちが歳をとりすぎた。情けないことに脳みそが固ま
ってしまっているから柔軟に対応できない。脳裏に浮かぶ言葉は「次世代」。そういえば、見学者のほとん
どが、すべてと言っていいぐらい作者と同年代か、それより下の年齢。小難しい理屈など、どこ吹く風。
きゃっきゃしながら楽しんでいる若い女子の二人連れの姿を見ているとなんだか羨ましく、本来の美術を
愛好する姿に感じられた。
あ、そうそう、楽しめるっていう意味では、「あまりにも英国的というわけではないが、ほぼ英国的」という作
品や「僕はニューヨークにもどらないだろう」という作品は楽しめた。どんな作品かは言わないが、能動的に
鑑賞しさえすれば、必ずそばにいる監視員の人と会話ができる(笑)。もしかしたら、このような表現がコン
セプチュアル・アートの醍醐味かもしれない。それに、作品を観る前に、作者がインタビューを受けながら
自作品を解説しているビデオを流しているので、それを見てから会場を回る方がより楽しめるかも・・・。
2017.05.07 写真フェスティバル「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017」
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GRⅡ

毎年5月になると京都で写真フェスティバル「KYOTOGRAPHIE」が開催されている。
なんだかんだと、3年連続でこの写真祭を観に行っている。
ゴールデンウィークの京都は観光地以外は人出も少なく、案外ストレスなく楽しめる。
今年のテーマは「LOVE」。まあ、そんなテーマにとらわれることなく、気になる作家の作品を楽しんできた。
よろしかったのは、沖縄出身の山城知佳子の三つの作品。
特に感銘を受けたのが、2009年に制作された「あなたの声は私の喉を通った」
サイパン戦玉砕を体験した沖縄の高齢者の語りを、自らの口を通して再現しようとする映像作品で、
彼女自身がモデルとなり、老人の声が彼女の口の動きと同化している様を映像化したものであったが、
声だけではなく心の動きまでも再現したように涙を流すシーンは、彼女が、死者が「憑依」したイタコと
化したかのように、老人が語る以上に、その壮絶な体験を感じられた。
過去を無視して、国際情勢を声高に叫び、国民に恐怖心をあおる輩どもに、見せてやりたい作品。
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2016.11.10 達筆にもほどがある
【生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲】京都市美術館にて

今を時めく伊藤若冲。なぜにこれほどの人気を博すのか?
たぶん、絢爛豪華、キュートにして微細な「樹下鳥獣図屏風」や超具象的表現の「群鶏図」にみられる
尋常じゃない細部の描きこみが、普通の日本画じゃない「奇想の画家」としても評される特殊性からだろう。
しかし、この二作品、それはそれは敵もさる者(主催者のことね)、同時に見られるようなプログラムは組ま
ず、この時期(つまり11月中旬)は両方ともみられない端境期で、拍子抜けするぐらいあっさりとした水墨
画のオンパレード。だからか、入場者も言うほどのことはなく、わりとじっくりと観られることができた。
で、その水墨画であるが、今まで見てきた水墨画と比べても尋常じゃない線のきれいさと墨の濃淡の美しさ!
例えば、アタクシが宇宙一の水墨画だと思っている長谷川等伯の松林図屏風を隣に持ってきたとしよう。
たぶん、松林図屏風の荒々しい筆さばきや墨の色の安っぽさが眼についてしまうだろう。
まあ、それほど若冲の水墨画は繊細にして丁寧。高級感がある。全品見応え十分。

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それはそうと、一幅の水墨画を観ていてふと思った。水墨画って基本、一発勝負の世界。いらん考えを持
たずに一基果敢に攻める絵画。観てるだけじゃもったいないので、もし自分がその絵を描くとすると、どこ
からスタートして、どこで終わるのか妄想してみた。
例えば、この作品。重なった二羽の鶴を描いた作品だが、あなたならどこから攻める?

まず、薄墨で手前の鶴の胴をひと筆で一気に円を描き、続いて尾っぽを濃い墨でちゃちゃと描き、いや、ま
ず足か?それとも、尾っぽのグレーの部分か?まあ、とりあえず、細い筆に変え、頭くちばし、奥の鶴の頭
部を一気に描き、筆を刷毛に変えて、地面のニョロニョロした線をサアーッと引いて、また、細い筆に変え、
手前の鶴の嘴、足の点々、ニョロニョロの上に重なるように点々を打ち、他、細部を仕上げて一著上がり・・
・・・・その間五分。
なんて、アタクシできっこない。第一、完成した作品を見ながら文章を書いていても「?」と迷う部分があるく
らいだから、自分ではできないけれど、若冲になった気分で制作の追体験、バーチャル制作っていう面白い
遊びを発見した。まあ、何点かやってみたけれど、実際にはできっこないから途中で空しくなったけれどね。
観終わって、若冲って筆達者だなー思った。いや、筆記用具として、筆と墨を使っていた時代の日本人はみ
んな筆達者。だってそれを使うしかないんだもの。だから、毎日使っていると自然と筆・墨・水の使い方を体
が覚える、基礎ができている。もう、現代日本人とはベースが違う。現代では毛筆自体、伝統工芸になっ
てしまった。「筆達者」という言葉も死語にちかいか、特殊な語句になってしまった。こんな風にパソコンで文
字入力が当たり前になって、最後には話し言葉を文字に変換すことしかしない人間の時代が来たら…。

杉本博司のロストヒューマンじゃないけれど、文字を書かなくなった人類は、どんな絵画を残すのだろう。

2016.10.21 信ずる者は救われる
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東京写真美術館で開催されている杉本博司の「ロストヒューマン」を観た。
会場を二つに分けて、本題の「ロストヒューマン」と、新作の「廃墟劇場」と「仏の海」を別会場で展開する
構成だった。「海景シリーズ」を観てからの杉本写真のファンとなったワタクシ。本題の「ロストヒューマン」は
フランスで開催された記事を美術手帖で読んで予習していくほどの力の入れよう。その期待感はこれまでの
展覧会とは気合の入れようも違うというもの。気合を入れていた割には、和歌山の田舎からのお上りさん、
会場入口がわからず迷ってしまって、入口にたどり着くまで疲れてしまった。

さすが世界の杉本。見学者の年齢層や国籍もバラエティに富んでいて、平日だというのに結構な混みよう。
さて、展覧会の構成は<今日 世界は死んだ もしかしたら昨日かもしれない>という一文を軸に文明の終
焉を妄想した33のショートストーリー。インスタレーションという美術表現ではあるが、素人さんにはそんなこ
とは分からない。平たく言えば、風化したトタンをパーテーションに使って廃墟風にした小部屋に、骨董蒐集
で集めた物品と自作品をレイアウトした展示、と言ってもいい。こんなことを書けば身もふたもないが、現代
作家の中で、最もポピュラリティのあるアーティストとして認めざるを得ない見ごたえのある展覧会だった。
「最もポピュラリティがある」とはどういうことかというと、アートを見る、という体験の少ない人にとっても、退
屈しない飾り方をしているし、日本人は日本人として興味を引く内容だし、外国人にとっては「異文化」を見ら
れる魅力があるし、観ながら、いつのまにか現代社会の危うさを感じさせる社会性もあるアートだし、杉本の
「趣味のよさ」や彼の集めた骨董品の貴重さに感心させられるし、もちろん杉本写真の現物を庶民が見られ
る大変貴重な機会でもある・・・という、見に来た人間すべてに行き届いた配慮がされた意味で「最もポピュラ
リティがある」展覧会と表したい。もう、まったく世界をまたにかけたアーティストのエンターテイメント魂。
なにより、小難しいコンテンポラリアートを優しく提示し、誰でもが楽しめるところが凄い。
もしかしたら、事前に何も予習せずに見に行く方がインパクトが強いかもしれない。

この「ロストヒューマン」が今回の展覧会の第一部だとすると、「廃墟劇場」と「仏の海」は第二部だ。
実はアタクシの本当の目的はこの第二部。特に「仏の海」の実物を見たかったのだ。
体育館の広さのある会場を斜めに仕切り、入口付近に展示された9点の新作「廃墟劇場」と対をなすように、
その裏に展示されていた三十三間堂の千体仏を撮影した「仏の海」には静かに感動した。
第一部が人気なのはわかるが、第二部のこのスペースは閑散としていて、入ってきた人も足早に通り過ぎて
いく。人気の少ない暗がりの中のほのかなライティングに浮かび上がる千体仏は、「平安人が見たであろう
千体仏を、現代によみがえらせる」という杉本が試みたその仏の姿がそこにあった。アタクシは杉本博司の
作品に感動したのではなく、末法の世に出現した千体仏に感動したのだ。

今、この記事の参考にと美術手帖のサイト(http://bitecho.me/2016/09/02_1127.html)を読んでいると、
「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」でキーワードとされている33という数字はこの三十三
間堂から引用されている。杉本はこの作品について「滅亡の33話を3階で見て、実際に滅びていく姿を2階の
『廃墟劇場』で見て、裏側を見ると千体仏が待っている。救われて帰っていただくということです」と構成の狙
いを明かした。・・・という記事が目に留まった。
いや、まいった。してやられた。アタクシは杉本博司に救われたのだ。

2016.07.30 ストラツク!バッターアウト!
まったくの予備知識なしに、知らなかった事に出会うと、良きにつけ悪しきにつけ何がしかの興奮状態に
陥る。悪しきことへの出会いはご免こうむりたいが、良き場合は大歓迎。しかし、なかなか出会うことはない。
新しい音楽や美術関係の出会いは、こちらの長年の嗜好というものがあるから、自分の好みに傾倒しがち
でこちらから探しに行くことが多く、あちらからやってくることは非常に少ない。だから、歳をとると、新しい作
家(アーティスト)と出会って興奮する、ということも少なくなってしまった。

DIC川村記念美術館で開催されている「サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-」を見に行って
きた。見に行ってきた、というと自ら行ってきたように聞こえるが「連れて行ってもらった」というのが正しい。
連れて行ってもらたったから、この企画展もほとんど下調べもせず、どんな作家なのかさえ知らない、とい
うほぼ予備知識なしの真っ白な状態での鑑賞となった。そして、興奮した。アタクシ的、ド・ストライク!
作家の概要は美術館のサイトを見ていただくとして、「そうそう、こんな感じで見たいんだよ」っていう写真。
写真家の写真じゃないから、テーマを持った具体的な意味のあるモチーフでない。モチーフは身の回りの
モノ。写真に写されたその他愛もないモノをどう見ているか、というところに共感し、興奮した。

ポラロイドカメラで撮影しているモチーフは、ピントが合ってなく、具体的な形さえわからないまでにボケ
た写真さえある。一つのモチーフを焦点距離を合わさずに前後して撮ったりもしている。撮っている対象
になんだかの意味や説明的な要素もなく、作者は視点のズレを楽しんでいるかのようだ。そんな遊び、
無意識にしませんか?例えば、目の前のコップをある距離で見るとピントが合ってますよね。その合った
ピントのまま視点をどんどん近づいてみたり、離してみると、その図像がピンボケの状態になる。そんな
遊び。アタクシはド近眼だから、ピントの合う幅が狭く、裸眼でモノを見るとこんなことになるんですけど。
そういう観方をポラロイドカメラで撮影している。それを、厚紙にカラードライプリントという手法でプリント、
図像の下にはサインとエディションナンバーが鉛筆で書かれていて、写真というより版画に近い作品。
「ドライプリント」というのはどんな手法だろう。ネットで調べてもズバリの答えは見つからない。
作品を子細に見てみると、オフセット印刷?現代的機械ならレーザープリンターで刷った感じ。
もう、そこまですると「写真」ではないのかもしれない。いや、プリントしたインスタグラムか?
サイトの解説を引用すると・・・
・・・・夢の記憶をたどるような親密でもどかしい視覚体験を促すものです。自らを「ロマンティックな象徴
主義者」と称したトゥオンブリーは、現実を主観のヴェール越しに写すため、あえて作品に盲目性を取り
込んだと考えられます。・・・・
図録の解説を読んでいると、この作家は暗闇の中で作品を制作する、というようなことをしていたそうな。
見ることの難しい状況で図像を作るということは、見えないことで、脳みその中のイメージを表出させよう
とすると、主観的要素が生まれる、というか頼らざるをえないというか。、その延長線上でカメラの図像を
使うとなると、このような写真になるということか。
それにしても、これら作品が、B4サイズ程のシンプルな額縁に入れられ、広々とした白い会場に100点
ほど展示されていたが、一つ一つの作品は小さくても、十分見ごたえのある展示で、いつまでもいたい、
と思える展覧会は久しぶりだった。というか、全部欲しい。そして、最後に作者の言葉が書かれていたが、
これがまた良い・・・・・
【歳をとると、始まりの事柄に戻っていかなければならないことがわかってきます。あるいは感傷的になれる
ものや何かへと。色々な意味で人生が閉じ、物事が簡単にはいかなくなり、わくわくすることもなくなると、
まあ、どうあらわしてもらってもかなわないですが、そうなるとノスタルジックになっていくものです。】

・・・・うーむ、ストラツク!バッターアウト!・・・・まいりました。

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