2010.12.21 写真を信じちゃいけないよ
昨日の続き・・・・

写真で言うとね、薔薇の花を撮ったとしますね。その薔薇の写真を見た人が、
薔薇の花という物体以外の意味を感じたとすると、それがメタファー。
逆に、その薔薇を撮る人が薔薇という物体の図像を借りて意味を表そうとしているのもメタファー。
この理解で良いのだろうか?
だから、魅力的な写真には、撮り手が無意識であろうと意識的であろうと、
見る側の意識の中に入り込んでくるメタファーという隠し味が潜んでいるのです。
ここで、問題になってくるのが写真の本筋でもある「記録性」です。
中平卓馬は一世を風靡した「アレブレボケ」を捨て、自らの写真のメタファー性を排除して写真を撮る努力をしています。
これは、誰もが本当のことを撮していると思っていた報道写真が「警官を助けようとしている」写真から
「警官に暴行を加えている」写真に変換され、それを裁判の証拠とされた事に起因します。
私は、中平卓馬という写真家の、写真に対する真摯な姿勢を知って、「写真って深い!」と思いました。
「ただ、何となく撮っている場合じゃないぞ」と思ってしまったのです。

同じ図像表現の絵画は、ウソも真実も人の手によって成り立っているから、
そこにメタファーがあろうが無かろうがモノとしての評価ができる。
機械が忠実に取り込んだ光を図像に変換した写真は、その客観性から信頼されているはずなのに、
見る側の立場や意味づけによってその信頼性を喪失してしまう。
写真の危うさと魅力はそんなところにあるんじゃないだろうか?

メタファー、魅力的な言葉です。
この言葉を手の内に隠し持っていると、撮っている写真が変わってくるかも知れない。
しかし、それも使い方次第ですね。

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