2011.06.18 未完の完成
青木繁の自画像の図版を見ながら、彼は初めて「画家が絵を描く」とはどういうことだろう、と考えた。
美大を目指しながら、画家に興味を持つ、というのもおかしな話であるが、それが今の彼の現実である。

彼は青木の代表作「海の幸」が、あまりにも仕上がっていないことが不思議でたまらなかった。
受験のための限られた時間で作品を完成させることしか経験のない彼にとって、その時間内でどこまで描き込めるか、
という課題は最優先の問題で、自らの意思で「描くのをやめる」などということは、
描く気持ちが萎えてしまうこと以外考えられない。つまり、それは失敗を意味することになる。
しかし、画家である青木は途中でやめてしまっている。
作品は、画面中心にいる二人はハイライトまで入って存在感を強調しているが、両端にいくにしたがって希薄になり、
画面両端に描かれた人物などは微かに線描だけでほとんど具体的な形さえわからない。
下書きを本画に写すのによく使うグリッドの線まで残して・・・。
それが、どういうところからきているのだろう。
本人は描く気をなくし、放置していた作品が、後年、未完の作品の物珍しさが高い評価を得たのだろうか?

uminosachi001.jpg

モチーフは神話からきていること。
実際に見た情景ではなく、当時珍しい構想画でまとめたこと。
この作品は、この状態で白馬会の展覧会に出品したこと。
そして、当時一般的でなかったヌードを描いた作品だったので、特別室に展示されたということ。
展覧会での評価は高く、青木は、展示終了後中心になる人物二人に加筆していること。
一人だけこちらを向いているのは恋人福田たねの肖像であるらしいこと。

彼は画集の後書きから「海の幸」を形成する背景というものを初めて知った。
だけれど、このような背景だけが作品の魅力ではないこともわかった。
その証拠に、青木が何故「朱色の線」を引くのか、一切説明されていないからだ。
そして、誰も説明できないのだ。
誰も説明出来ない朱色の線は、単なる突飛なアイデアからきたものではなく、
青木自身の眼と脳で発見した神聖な色と線なのだろう。
その線を引くが為に、途中で描くのをやめた。朱色の線の生々しさを残すために、
作品自体も「途中」の生々しさを必要とした。
青木は見ることによって神聖な朱色を発見し、それを絵に描くことによって表現した。
絵を描くというのは、そういうことなのだ。
彼は、青木繁の「海の幸」の図版を見ながら、そんなことをボーっと考えていた。

「絵を描くとは何か」という答えを見つけるために、彼はまた描き始めた。
しかし、その答えが見つかるはずもなく、二度目の受験も失敗した彼は突然私に告げた。
「俺、ニューヨークに行ってくるよ」

あれから、30年、彼はまだ絵を描いているのだろうか?
私は久しぶりの「海の幸」を見ながら、彼の描いていた絵を思い出そうとしていた。

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