2012.04.02 感情の発露としての写真
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GR digital Ⅳ ラフモノクローム

とある朝、通勤途中にある神社の神木が手足をもぎ取られた無様な姿に変わっていた。
私は最初、ノーマルモードで数枚撮影したが、途中からラフモノクロームに変えた。

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表現が感情の発露として成り立つのか?
いや、写真は、撮る者の感情の発露として成立するのだろうか?

アメリカの画家、Jackson Pollock(ジャクソン・ポロック)の、その名前を決定づけた
アクション・ペインティングの一連の作品は、一見、見る者の感情を喚起させ、
受け手側は発信者であるポロック自身の「感情の発露」を共有させてくれているように見えるが、
実はそうではない。ポロックは床に置かれたキャンバスにペンキをぶちまけ、
意味のない線を無造作に引いたかのように「見せている」のだ。そこには「感情」はなく、
身体行為としての絵の具の飛散跡と、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールし、
天地のない画面を作り上げようとする「造形思考」だけだ。

枝を切り取られた神木を見て、思わず画像設定を変えたとき、いつもの自分の思考とは違ったのを感じた。
それは、いとも簡単にチェーンソーで刈り取られた枝と、丸裸にされた幹を見ての「感情」である。

感情の表面化は身体行動として表されるものであるが、道具を使ってその感情を表出させる行為は、その人間の
個人的なモノでしかない。ポロックのアクションペインティングが「感情の表出」なら、それは誰でもできる。
怒りを抑えきれない人間にペンキと刷毛を与えたら、ポロック作品とよく似た画面を作れるかも知れない。
私が枝を切り取られた神木をラフモノクロームで撮ったのは、これによく似ている。
オリンパスの「アートフィルター」を筆頭に、様々なデジカメの特殊効果を使った画像。
本来のカメラという道具の目的、「記録」だけではない別の要素が付加されることによって
撮り手がその対象に安易に感情移入してしまうのは避けるべきではないかと、撮ったあと反省したのである。

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