2012.10.02 memento mori
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ヴィム・ヴェンダース監督作品 「パレルモ・シューティング」を田中さんから借りて観た。
幻影の世界を生きる男が、現実の世界に戻っていく物語だ。作品のテーマは
「memento mori(死を想え)」、デジタルを駆使して、自分の思い通りの
映像世界を手に入れた売れっ子写真家が、「死」の幻影に怯え、デニス・
ホッパー演じる「死神」と対峙することによって現実の世界を知ることとなる。

主人公が怯える何者かを、捉えようする携帯電話のカメラ機能がデジタル画像の象徴。
しかし、それを使うたびに死への恐怖でおかしな幻影を見る主人公。
田中さんから聞いていたプラウベルマキナは、その逆の象徴。
写真好きの視点からこの映画を見ていると、いろいろな示唆が含まれていておもしろかった。
後半に続く・・・(久しぶりに長いぞ)
例えば、こんなシーンがあった・・・
主人公の旧知の女性モデルが妊娠し、彼は彼女の希望でその姿を撮影する。
彼は「妊婦」のイメージとはかけ離れた非現実的なシチュエーションを設定し、
悦に入っている主人公。モデルに撮影後の画像を見せると、「おもしろいけど、
ちょっと違うんだよね」と指摘される。納得いかない主人公は、イタリア・シチリア島
にある街パレルモに場所を変え、バロック絵画風の斜光線の中に浮かび上がる、実に
オーソドックスなモノクロで撮影すると、モデルは満足し、帰宅の途につく。
そして、パレルモが気に入った主人公がこの地に滞在し、フィルムカメラであるプラウベル
マキナを使って街を散策しながら、撮ろうかな、と思ってレンズを向けるも撮らなかったり、
撮ろうと思ってレンズを向けるも、チャンスを逃し、ちょっと待ってみても、二度と同じ
チャンスが訪れることもなく諦めてしまったりと、プロカメラマンが実に素人っぽい姿を見せる。

この一連のシーンを観ていて、なんかわかるような気がした。
デジタルカメラを使うと、「後で良いのを加工すばいいや、何枚でも撮っちゃえ」みたいな、
刹那主義的にシャッターを切ることができるし、フィルムを使うと、撮れる枚数を考えて
「もったいない」と思う気持ちでシャッターを切らなかったり、一本のフィルムで
起承転結の物語をイメージしたり、とにかく「一本のフィルム」を前提に考えるよね。
その好き嫌いは、人それぞれ。
だけれど、確実性を求めてバシバシ撮っているいるはずのデジタル映像が、実は不確実で
実態のないものであるのに対し、フィルムは介在する人の不確実性がもろに出るかわりに
フィルムという実態は確かにある。(死神は劇中「デジタルは嫌いだ」と言ってるけれど)
私はといえば、昨日も書いたけれど、今はフィルムの心境だな。

全編見終わって・・・・
人類が生み出した宗教というものが、「生」を理解し、「死」を克服するための接近方法
なんだということを改めて感じたのと、古今東西、人を魅了する芸術活動のほとんどすべてが、
そしてそれを創り出した人間は、この「生と死」に対する個人的宗教儀礼の現れとして歴史に
残っているんだと感じた。作者はそれを「映像」という自分の土俵で考えていたに違いない。

話は変わるけれど、この映画を観ながら、今、旬の写真作家の作品を思い浮かべた。
蜷川実花や川内倫子、ホンマタカシやウィリアム・エグルストンだ。
実は写真を本格的に趣味にしてから知ったこれらの写真作家の作品、好きなんだけど、
それは自分の中に「みんなが良いって言ってるから」という部分も少なからずあるん
じゃないか、と、ちょっと自分を疑っていた。でも、どの写真作家の作品も、memento mori
が根底にあるからこそ観る人の琴線に触れる作品として人気があるし、私もその一人として
これらの作品を観て感じるのかな-、納得できた。だから、やっぱり好きだ。

久しぶりにだらだらと書いてしまった。
痛快なアクション映画でもなく、ワクワクドキドキするような映画でもない、
ロマンチックでもない、心癒やされるわけでもない、モチーフが「映像表現」に
特化してるから一般受けしない。それにちょっとステレオタイプ的な感じもする映画ですが、
良い写真を撮りたい、というモチベーションを刺激してくれるにはなかなかの映画でした。
それに主人公が使っていた「プラウベルマキナ」・・・・これは手に入れなければなるまい(笑)

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