2012.10.09 誰だって楽したい
人間の一番偉いところは「楽したい」って思うところだ。
その「楽したい」の歴史を、人は「進歩」というのだ。
MIHO MUSEUM で開催されている「土偶・コスモス」展を観て、そう思った。

展覧会は時代の古い順番に縄文土偶を紹介してくれています。
閉館時間を気にしながらの、流して観た印象でしか語れませんが、縄文土偶と言っても千差万別、
時代を追うごとに造形的変化を見て取ることができました。
それは、ただ、自分の指だけを頼りに人体を模した(女性だろう)最初期の小さな形から
手に持つのにちょうど良い大きさになり、平板な形に穴や線刻の簡単な装飾から、
針のような道具で胴体全体、もしくは正中線に沿って無数の小さい穴が開けられ、
平板な形からよりリアルな三次元の表現となり、動きが表現され、物語性を表すかのような
表現に変化していきます。(地域性の問題ともいえますが)
つまり、時代が進むにつれて道具が開発され、それとの相乗効果で技術が進歩し、
より複雑に、より精細に、より作り手の意思が反映された表現に変化していくように見えるのです。

「楽したい」という意味は色々ある・・・・
お金持ちになりたい、のんびりしたい、幸せになりたい、健康でいたい、もてたい etc ・・・・
古代人だって一緒だったはずだ。土偶の作り手も最初はただ単純に道具も使わず、
「こんなのがあったらいいのになー」と練った粘土が、時代の要求に応えるかのように
どんどん「宗教的儀礼」化していった形の現れが多様化した表現なのかな。

土偶を観て「楽したい」なんてことを考えるなんて的外れも甚だしい・・・かもしれない。
土偶はそんな「楽したい」の原初、を色濃く残している造形物、つまり自分の楽さを追い求める形だ。
そして、宗教に思いを巡らした。
語弊を恐れず言い換えれば、宗教は「個人で願うのもなんだから、集団的に楽したいを願いましょう」だ。
人を救済するのが宗教であるなら、他者を救済するのではなく、自分自身を救済することだ。
宗教ってそんな単純なものなんじゃないのか?

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GR digital Ⅳ
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