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2013.11.11 昔の人は自由だ
放置状態だったけど、久しぶりに琴線に引っかかったアートに触れられたのでちょっと一言・・・。
前回のNHK日曜美術館の特集は桃山時代の巨匠、本阿弥光悦。
中学の日本史のテストで、近世のテスト範囲なら絶対覚えておきたい名前だから、
大人になっても記憶にある歴史的有名人、桃山時代のマルチアーティスト。
詳しくは、いろんなところに出てますから割愛しますが、番組で紹介されていた国宝や
重要文化財に指定されている作品をテレビを通してみていると、「ねばならない」を
脳みそから削除すると、これほど自由なことができるのか、とそのことに感銘を受けた。
例えば、舟橋蒔絵硯箱の特徴的な造形と鉛を使ったディティール。
黒漆に金の蒔絵が「当時の常識」だった硯箱の意匠に黒光りする「鉛」
雪峯という銘のついた赤楽茶碗は、バコっと割れた茶碗を、その割れ目を漆と金粉で補修してある。
全長10メートルにも及ぶ鶴下絵三十六歌仙和歌巻は、若き俵屋宗達に下絵を描かせ、その上に
見事なほどバランスよく一騎果敢に筆を走らせる。(もう、これはジャズでいうとデュエットでの即興演奏だ)
残された作陶作品も、最低限の茶碗の機能を残しつつ、炎に委ねて遊んでいる。
なんて自由なんだろう、何事にも縛られていない、あるがまま、想いのまま・・・・。

光悦の生きた時代そのものが「ねばならない」に縛られず、誰もが自由さを容認された時代なのかな。
「ねばならない」は世間の目を気にしているから、そうなっちゃうんだよね。
それって生ぬるいよね。だって、結局は誰かに判断を任せてるんだよね。
それをとっぱらうと、自分ですべて決めなくちゃいけない。それは自己責任の緊張感のある自由。
光悦作品の魅力は究極の自由なのかもしれないな。
テレビのフィルターを通してでしかないけれど、良い作品を見た。
そしてちょっと萎えかけているモチベーションを刺激してくれた。

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