2014.10.05 IMAに見る「今」の写真
もう、ひと月ほど、まとまって写真撮ってないなー。(あっ、これ、この前も書いたな)
長月は空気が澄んでいて風景が綺麗なんだけど(稲穂が実った田んぼ風景なんか最高だよねー)、
頭でっかちになっちゃったワタクシの脳みそでは、どう対処していいかわからないので、「ああ、綺麗
だなー」と見とれているだけで、写真に収めることもできないでいます。
今日も写真を撮っていないけれど、愛知県立美術館で買った東松照明展の図録とIMAの最新号を
パラパラとめくる精神的余裕ができたのでパラパラめくりながら、写真のことを考えた。
(たいしたこと考えてないけれど、まあ、読んで)

キーワードは「ARTPHOTO」
IMAの記事の中に出てきた言葉なんだけれど、IMAっていう写真雑誌は、その内容が芸術的。
まあ、普通に撮っていても撮れない写真がほとんどで、個性的な視点と高度な技術を要する写真ばかりだ。
この号はデジタル技法を積極的に使った作家も紹介されていて、これまでの写真が「撮ることで表現す
る」だとすると、これらは「創る表現」に写真技法を使っている、もしくは「写真技法」を利用した平面表現だ。
つまり、「絵を描く」のに似ている。これが、ARTPHOTOの「今」なのだろう。
・・・・そんな感想を持ちながら、某カメラ雑誌の一連の投稿写真を思い出す。
ものすごーく、IMAで見る写真と離れている。もう、地球と月ぐらい離れている。某カメラ雑誌の一連の
一般投稿写真は時間が止まって動けなくなってしまっているように見える。まあ、それでも良いのだろう。
いや、待てよ?これで良いのか、一般諸君!
そこで、巨匠、東松照明の写真の登場です。ドキュメンタリーです。社会の深淵を感じさせる、見る者を
感銘させるに充分な説得力を持った作品です。某カメラ雑誌の一連の一般投稿写真に興味を持って見
ている方々は、巨匠に代表される戦後日本激動時代の写真の幻影に惑わされていないだろうか?
その幻影とは、「特別な」を撮った写真が良いという幻影。特別な風景、特別な人、特別なイベント・・・・。
そりゃ、当時は激動がそこいらじゅうで起こっていて、写真のネタも事欠かなくて、そんな場面を撮るのも
自由で、撮られる方もおおらかで、本当の意味での写真の時代だった。だから、某カメラ雑誌の一連の投
稿写真を撮る一般も巨匠達の写真を規範に、その時代のIMAを撮っていた。それでよかった。
しかし、今は、巨匠たちは永遠となり、一般は過去の今を追い求め、さらに悪いことに、一般の人達の「私
の写真のおっしょさん」と呼ぶ人たちも同じ幻影を追っているからタチが悪い。
撮りたい写真が、激動の時代の一場面みたいな写真が当たり前になってしまっているから、必死にネタを
探すんだけれど、今の世の中、それほど激動の時代でもなく、たいしたネタもない。ましてや、どちらかとい
うと閉塞な時代だから、思ったほど世間はおおらかではなく、激動の時代の一場面みたいな写真を一人で
撮影していると犯罪者あつかいされるから、撮影会と称して、徒党を組んで撮るしか安全に趣味を堪能す
る方法が無くなってしまった。悲しいことだ。しかし、そんな凝り固まった写真へのアプローチを取っ払ってし
まって、写真を楽しむ方法があるんじゃないか?

激動の時代の一場面みたいな写真に固執する必要なんてどこにもない。それは写真家に任せておけばいい。
私たち一般は、そことは違うアプローチで写真表現を楽しむことができる。そのヒントが今月号のIMAの記事。
話、長くなっちゃったけれど、刺激を受けないんだよね。カメラ雑誌の、激動の時代の一場面みたいな一連の
一般投稿写真・・・・・。昔は「おお!」と感心したんだけどな、見てばっかりだから頭でっかちになっちゃったな。
やっぱ、撮ってから考えないとね(ちょっと反省)
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