2014.10.30 これがそれだったのでふれてみた
兵庫県立美術館では、1989年度から視覚に障がいのある人にも来館してほしいという思いと、作品に手で触れることで、
視覚に偏りがちな美術鑑賞のあり方を問い直すことを目的に『美術の中のかたち―手で見る造形』展を、毎年開催して
いる。今年は漫画家・横山裕一が館所蔵の立体作品を選び、その作品にインスピレーションを受けた「ネオ漫画」を制作
し、氏の作品と館所蔵の立体作品を展示したインスタレーション『これがそれだがふれてみよ』という名で開催している。
この展覧会を、同時開催している『だまし絵Ⅱ』展と『木梨憲武展×20years』の抱き合わせで見てきた。
本来なら、他のふたつの展覧会もおもしろく、実に内容の濃い展覧会なので、みなさんにも
ぜひ行ってもらいたいので紹介したいのですが、ここはちょっとマニアックで私的に感銘を
受けたので、この展覧会『これがそれだがふれてみよ』で思ったことを書かせていただきます。

『これがそれだがふれてみよ』にアルベルト・ジャコメッティの《石碑Ⅰ》という人物の半身トルソが展示してあった。
ジャコメッティは以前このブログ(2009.09.25 ジャコメッティのこと)で紹介したこともある作家で、紹介するというこ
とはアタクシの大好きな作家であるわけですが、この彫刻を素手で触らせくれるという大サービス。
(係員の人も言ってました。こんなことはめったにないと)
この大サービスにアタクシは興奮して触りまくったのですが、なぜそこまでしたのか?
まず、この作品の概要を説明しなくてはなりません。この作品は、ジャコメッティが
1958年に粘土で作った型を石膏どりし、鋳造した作品です。そしてこのころ、ジャコ
メッティは近しい人をモデルにしながら、絵画や彫刻で「真実の存在」という哲学的な
問題に挑戦していた、つまり、美術という虚構の世界に「そこにいる」を再現しようと
悪戦苦闘していた時代の作品です。(・・・と、アタクシは理解しています)

その悪戦苦闘を観察し、記録したのが矢内原伊作の著書「ジャコメッティとともに 」。
アタクシはこの本を読んでいたく感動した。芸術家とはこういう人のことを言うんだと、若いアタクシは思った。
「悪戦苦闘」と4文字で簡単に終わらせるには忍びないので、もう少し書くが、この本を読んでいると、この作
家が、ひとつの作品を世に生み出すために、精神も肉体もへとへとになりながらも妥協せず、もうどうしよう
もなくなったら「終わらせる」という制作経過がリアルに読み取れるが、その悪戦苦闘の痕跡が残った彫刻を
さわれるのだ。ジャコメッティが粘土と格闘した指の跡が生々しく残った形にふれられるのだ。
アタクシはさわりながら思った、巨匠ジャコメッティの御利益はないものかと・・・。
その気持ちはたぶん、モデルの目の前で繰り広げられるジャコメッティの苦悩を、矢内原の目線から知った
からこそ、この彫刻をさわれる喜びに浸れることができたのだろう。それは、身代わり不動尊やら仏さんにさわ
って、御利益をいただけると信じる人々の気持ちとよく似ている。というか、仏師が作った作品に宿る、人々を
信用させるだけの、目に見えない説得力のようなものが、ジャコメッティの作品にも宿っているのかもしれない。

ぶっちゃけ、同時開催している『だまし絵Ⅱ』展や『木梨憲武展×20years』の方がわかりやすく、見ていて楽しい。
『これがそれだがふれてみよ』は、なんとなく見ていると意味がわからないだろう。アタクシも「見る」という普段の
スタイルで通り過ぎるところを、係りの人の指示に従って「さわる鑑賞」をやってみた。そして『これがそれだがふ
れてみよ』だったので、【これがそれだったのでふれてみた】のがジャコメッティの作品で、やってみると、こんなに
長い文章になる(久しぶりだなー)ほど、強いインパクトを与えられたということ。(人の言うことは聞いてみるもんだ)
因みに、ジャコメッティの指で剥ぎ取った粘土のへこみと、自分の指を重ね、同じ太さだったのをひそかに喜んで
いるアタクシはただのミーハー?(うむ、きっとミーハーだね)


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