2016.07.14 明治のロールモデル
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OLYNPUS PEN-FT with E・Zuiko 38mm f1.8

明治四十四年八月、夏目漱石が和歌山にやってきた。
大阪朝日新聞社主催の講演会で関西にやってきた漱石が、「現代日本の開花」という演題で県会議事堂で
行われ、講演記録も「夏目漱石全集10」ちくま文庫に残されている。漱石は、講演の中で「戦争以後一等国に
なったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。
ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ
神経衰弱に罹〈かか〉らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを
言うよりほかに仕方がない」・・・・というようなことを述べている。

なぜ、こんなことを書いているかというと、その漱石が講演した当時の県会議事堂が奇跡的に復元された。
明治29年に建造されたこの議事堂は、新しい議事堂が完成した後、昭和37年、岩出市の根来寺本坊南側
境内に移築されて、大講堂・客殿「一乗閣」として使われていましたが、老朽化と共に放置状態となり、ボロ
ボロになっていたのをやっとのことで修復、公開されることとなったのを機会に行ってきたからです。

明治四十四年、西暦でいうと1911年。日本は漱石の言う、外発的に西洋化し、、それまで熟成し培ってきた
ロールモデルである先人の教えを捨て、文明開化の名でとりあえず前へ進むことを選んだ。漱石の時代の戦
後は日露戦争。それまで列強の食い物とされていたアジア諸国では、アジア人は白人に勝つことが出来るとい
う希望を与えた。そしてとりあえず世界情勢の中心に躍り出ることができた。何世紀にもわたって主権争奪戦
を繰り広げられている百戦錬磨の西洋と伍したと勘違いしている日本人の心の危うさを漱石は憂いている。
ワタシタチの戦後は太平洋戦争。戦争でコテンパンにやられたにもかかわらず、数十年で大きく経済成長を
とげ、再び世界情勢の中心に返り咲いたことには間違いない。しかし、それでもまだ、経済的成長を望むのか?
どこまで成長すれば気が済むのだ?日本人は経済的な豊かさしか幸せを感じないのか?
漱石の時代から100年以上ったった現代の日本人は精神的に成熟したのだろうか?
精神的な成熟、内田樹氏のいう「大人」へと成熟しているのだろうか?

ただできるだけ神経衰弱に罹〈かか〉らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような
体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない・・・・漱石の言葉は今の日本人にとっても重い。
もう一人、この県会議事堂に関わりの深い人物がいます。
津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる濱口 梧陵。
1880年、和歌山県の初代県議会議長、つまりこの議事堂の最初の議長。
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、1854年12月24日に起こった、安政南海地震の
津波から村人を救った逸話の主人公ですが、この災害の後、梧陵は4665両という莫大な私財を投入し、村
のインフラの復旧、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した人物です。これだけでも人
格者なのに、話はこれにとどまらない。社会事業として、コレラ防疫のための支援、幕末の国際情勢に備える
人材養成のため、1852年、広村(現広川町)に「耐久舎」という名の「自学自労」の教育方針で学校を作る
など、商売で儲けた金を社会に還元したその功績は計り知れない。そして現代、こんな政治家は日本にいる
のだろうか?

この柱は、そんな史実を伝える県会議事堂の柱です。

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