2016.05.16 アタクシリアルとダレカノリアル
「絵画」は、カメラという機械を通して表現する「写真」より強い・・・・と先日の記事に書いたが、
自分で書いていて「ほんまかいな」と思い直した。
そう思ったのは、待ち合わせ場所で、ボーっとその場にいる人々を見ていてのこと。

アタクシはその人々のことは知らない。で、そのシーンを具象絵画で表そうとしよう。
アタクシは、構図を決め、下絵を描き油絵の具で描き始める。描きながら、きっとこう
思いながら描くはずだ・・・・この人物達はどんな性格をしていて、どんな人生を送ってきて、
今何を考えているのだろう?・・・・そんなそれぞれの個性を、アタクシの妄想で描き上げる。
つまり、想像力というやつが邪魔をしてリアルには描けない。
そこには、(写真のように)いくら精細で超リアルなシーンを描こうとも「現実」のリアルではない。
アタクシの脳みその中にある資料を基にした、そこにある記憶を再現しただけのことだ。
画家は自らの想像を長い時間を費やし、そのシーンを再現する。

ならば、そのシーンを写真で再現したとしよう。ただ、撮りました、というやつだ。
途中経過はシャッタースピード分しかない。シャッターを切ろうと判断した一瞬の出来事。
そこに写っているのは、リアルに、その時のそれぞれの性格や人生や思いであるはずだ。
そして、そこにあるリアルは写っているそれぞれのリアル。シャッターを切った人物の想像の
つけ入るすきはない。レンズという思考のないガラス球があるだけだ。
冷徹なガラス球を通してのみ表せるもの、絵画にはない写真の強みはそこだ。

絵画は「アタクシリアル」で、写真は「ダレカノリアル」・・・・なのかもしれない。
そこで、本日の結論。「絵画」は、カメラという機械を通して表現する「写真」より強い・・・・と
思ったのは、「物品」としての存在感。しかし、イメージの存在感は双方引き分けとしよう。

2016.05.05 がんばれ、国立近代美術館
細見美術館から歩いて5分、京都市立美術館のむかいにある京都国立近代美術館。
市立美術館が入場者の列が絶えないのに比べ、人々でごった返している、というわけでもない。
喧噪の岡崎公園の中では、閑散としたエントランス風情は、いつものことながら心配になる。
今、開催されている展覧会名が「オーダーメイド:それぞれの展覧会」
・・・・・ これじゃ、客は来ないよな― ・・・・・

HPに概略が載っているが・・・・
美術館で展示された作品は、それが置かれる空間やともに並ぶ別の作品との思いがけない出会いを
通して、さまざまな意味を生みだし、鑑賞者を豊かな解読の世界へと誘ってくれます。
「オーダーメイド:それぞれの展覧会」は、鑑賞者が順路やテーマを選択しながら鑑賞することで、
展覧会の見え方が変化するプログラムです。 ここでは当館のコレクションを使って、作品同士がどの
ように関係づけられ、作品の〈配列=オーダー〉がどのように決定されうるのかを体験を通して考えます。
「人生は選択の連続」、観る人それぞれが自分なりの物語を見つけながら展覧会(あるいはその見方)を
オーダーメイドするために、美術館に足を踏み入れたところからゲームは始まります。
・・・・・ これだけじゃ、どんな展覧会なのか、わかんないよな― ・・・・・

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そこでこちらも、もうひと踏ん張り、リンクされている出品リストをチェックし、
出品されている作品リストを見て、やっと観に行く気になった。(失礼な言い方だが)
作品は一部を除き、すべて京都国立近代美術館所が持っている作品ですが、さすが国立。近現代
美術に属するそれぞれの作品の質も高く、見ごたえのある展覧会だった。
「国立」と名のつく近代美術館は東京竹橋にある美術館と、ここの二か所。公立の美術館としては
老舗。老舗ゆえのしがらみが強いのか、どうも一般受けする企画が少ないと感じるのはアタクシだけ?
国立西洋美術館は重鎮だから横に置いといて、同じ「国立」がついていても、国立新美術館や国立
国際美術館は、キャッチ―な企画で興味を引く展覧会が多いと感じるのはアタクシだけ?

それぞれの「国立」に「役割分担」、というのがあるのだろう。
ここの展覧会の履歴を見てみると、幅広く様々なジャンルの企画展が開かれているのがわかるし、
前に訪れたのはもう5年前の青木繁、こちらが興味を持っているジャンルの展覧会が少ないから、
行く機会が少なくなってしまうのかなー。(向かいの市立美術館は年に一回は行ってるような)

まあ、「ゲームがはじまる・・・」という企画は理解できなかったにしても、おもしろかったよ。
画像左上: クシシュトフ・ヴォディチコ 「もし不審なものを見かけたら・・・・・・」 ヴィデオインスタレーション
画像右上: ウォルフガンク・ティルマンス 「Kyoto Installation 1988-1999」 インスタレーション
画像左下: 笠原恵実子 「 MANUS-CURE」 ポリエステル・フィルムに塗ったネイルカラー1050色
画像右下: 村岡三郎 「空質―値」 紙、木炭、朱
写真も撮れるので気に入った作品をいくつか撮影した。

あと、久しぶりにデュシャンの便器(泉)も見られた、それに静かに観られたから良かったよかった。
しかし、展覧会のハシゴは疲れるなー・・・以上!


2016.05.05 ゴールデンウィークの京都で高級なものを見た
ゴールデンウィークの京都は観光客であふれかえっている。
どこへ行っても、人の塊が右往左往していて、それはもうてんやわんやの大騒ぎである。そして、芸術も
負けてはいない。岡崎公園にある京都市美術館では、ここぞとばかりに様々な展覧会が開かれ、モネ、
ルノアールの印象派のスーパースター二人の展覧会、それに二科(関西)展、京都墨彩画壇展、
新創美術展、別館では京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE)と、これ全部観たらへとへとになって倒れる
だろうなー、と思うぐらいの物量作戦で、「まっ、たまには芸術鑑賞も良いよね」と考える観光客目当ての
怒涛の展覧会ラッシュだ。
しかし、そんなことするとアタクシは倒れてしまうので、京都市美術館は完全にパスし、その近くにある
細見美術館という私立美術館で開かれている「杉本博司 趣味と芸術—味占郷」展と、京都国立近代
美術館の「オーダーメイド:それぞれの展覧会」という、二つの展覧会をゆっくりと観てきた。
(主目的はみやこめっせ(京都市勧業館)で開かれている、春の古書大即売会に行くことなんだけどね)

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細見美術館とは実業家・細見良氏から三代にわたって細見家が蒐集した縄文・弥生時代の古代から
江戸時代、明治大正の近代までの日本美術・工芸を幅広く蒐集したものを展示している小さな美術館。
存在は知っていて、外観もおしゃれだから建築物としては興味を持っていたのですが、なんせ蒐集品が
渋すぎて、入ってみようという気持ちにはなれなかったのが、わが師匠(勝手に)であるところの杉本博司
の展覧会であるからには無視はできまいと、はせ参じたわけです。そしてその展示内容は・・・・
『婦人画報』で連載された「謎の割烹 味占郷」の中で、杉本氏が各界の著名人をもてなすために、氏の
骨董趣味で集めた品々を組み合わせ、毎回そのゲストにふさわしい掛軸と置物を選んで床飾りをしたも
のを再現したものです。

いやー、おしゃれ、かっこいい、粋。・・・それに渋い!渋すぎ・・・・・
床の間に掛け軸と置物なんて、大衆にはなかなか縁のない芸術ですし、その空間に置かれた品々が、
ある意味(寓意)を持って置かれていることを読める文化的知識もないもんですから、恥ずかしい話です
が、見た目の雰囲気が良い、たたずまいが良い。
例えば、 「真摯なる領域」と題された作品は、軸に鎌倉時代に描かれた明恵上人像、一幅と、置物に
鎌倉時代に木造彩色で作られた春日若宮御正体(神鹿の像)に、現代作家・須田悦弘が角と鞍と榊を
木彫彩色でしつらえ、その榊の上に鎌倉時代に作られた、小さな円形の板地に描かれた五髻文殊菩薩像
を置いた「オブジェ」ともいえるモノを組み合わせた作品。(こんなこと書いたってイメージわかないよね)
(http://www.emuseum.or.jp/exhibition/ex047/img/artworks07.jpg)を見てくれ。

ただ単に貴重な骨董品を組み合わせた床飾りなら、それほど興味を持ってみることができなかっただろう。
たぶん、「ふーん、なんか高級ね」で終わるところを、現代作家・須田悦弘の作品を紛れ込ませた例のように
近現代の品も平気で組み合わせたり、軸の装丁に念が入っているし、置物の下の台座のディティールが
面白かったり、さすが杉本博司。すべての組み合わせが、子細に行き届いていて静かに驚かされる。

これを「高級」というのだろう。こういう趣味の床飾りを愛でることのできる人たちを「セレブ」と呼ぶのだろう。
大衆であるアタクシは、この高級感あふれる床飾りを、展覧会という場で鑑賞し十分満足した。そして、この
ような床飾りを、本来の場で愛でることは死ぬまでないだろうと、大衆であるアタクシは少し卑屈になった。

追記
掲載した画像は会場3階にある茶室「古香庵」に特別公開されている杉本作品「華厳滝図」「月下紅白梅図」
両方見られるのは、会期内の祝祭日のみ。(エントランスフリー・会期は6月19日(日)まで)

2016.04.07 私はわたしを見つめている
見てきたよー、大阪国立国際美術館で開催されている
「森村泰昌:自画像の美術史-『私』と『わたし』が出会うとき」展・・・・

森美術館で開催された五百羅漢図展で注目されていた村上隆が東の横綱なら、西の横綱が森村泰昌だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチに扮したセルフポートレイトから、幼いころに持っていたぬいぐるみと家族写真を
組み合わせた作品まで、もう、森村泰昌ワールド全開の展覧会だった。
この作家の作品を気持ち悪いと評する人がいるが、ある意味理解できる。
アタクシも初めて見たとき、「気持ち悪い」と感じた。
しかし、気になって気になって仕方がなかったし、その時の印象は今でも鮮烈に記憶の中にある。
美術史の中で燦然と輝く作品に、自分の姿を落とし込んだ表現は、大阪人特有のどぎついしゃれっ気
が「面白い」と思ったからだろう。しかし、それだけではポップカルチャー方面で活躍することになるが、
そこではない次元で、この作家の特殊性というか凄みがあることは、なんとなく感じていた。

・・・・・で、本展覧会であるが、「写真を撮るのはご自由に」ということなので、最初は気に入った作品
全体を撮っていたのに、途中からそのポートレイトの眼だけをクローズアップで撮っている自分がいた。
いやいや、この展覧会の醍醐味は「眼」ですよ「眼」!
展覧会の題名が【自画像の美術史】となっているからわかるでしょうが、古今東西の自画像作品に
扮した森村のセルフポートレイト。絵画の自画像はいくら頑張っても絵の具の質感を消すことが
できないから、「眼」も「絵」。当たり前だけれど、「眼」も「絵」の一部。だから、こちらもその「眼」に
対する気持ちも少しはやわらかい気持ちで接することができる。しかし、森村の作品は最終的に
写真として成立しているから、「眼」だけには「絵の具」が塗れない。よってその「眼」は森村自身の
「眼」。その眼がこちらを見つめている。
あっ!わかった!森村作品の気持ち悪さと魅力は絵の具では隠せない、こちらを見つめる「眼」の凄みだ。

この展覧会は1部がこれらセルフポートレイトで構成され、2部は「自画像のシンポシオン」と題された
ビデオインスタレーション(平たく言えば映像表現)。自画像を描く画家たち(画家に扮した森村)と
森村本人が登場し、私とは何か、という哲学的問題をそれぞれのひとり言として語る映像。
少し退屈、だから居眠りこいてしまった。記憶に残っているのがフェルメールの独白、「なるほどねー」と
フェルメール絵画の真実を垣間見た。それに「やっぱ勉強してるなー、森村」って感じ。
勉強しないと語れない興味深い切り口だったなー。美術の先生、もっと勉強しろよって感じ。

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2015.12.10 モランディの魅力
東日本大震災で中止を余儀なくされた「ジョルジョ・モランディ展」が兵庫県立美術館に帰ってきた。
この画家の事は2度ほどこのブログでも紹介したが、回顧展としては十分な規模の展覧会だ。

いやー、良かったよ。
地味だけれど、この画家の魅力を再確認した一日だった。「地味」と書いてしまったが、見に
行く前に「同じような作品ばかり並んでいて退屈するんじゃないかなー」と想像したからだ。
モランディは画家としての半生をほとんど小さな画面の「静物画」ばかり描き、それもほとんど
同じモチーフの組み合わせだけで貫いたから、印刷物で作品を見ていてもどうも退屈なのだ。
しかし、生の作品を見ているとまったく飽きない。見れば見るほど、どの作品も魅力的だ。
美しい中間色の色味や、筆につけた油絵の具の濡れ具合がわかる筆致や、物の形を最小限に
説明している正確なトーンが、するめをかじっていると出てくる時の「うま味」のように、その良さが
見ている眼球から脳にじわじわと伝わってくる。

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静物 1964年 ポストカードをスキャン

それにどうだろう、なんともすっきり、きっちりした構成。
画像はアタクシが一番気に入った作品であるが、よく見てほしい。
壁と机の境界線と左側の4つの直方体(なんだろう?)が合わさった境界線、それに花瓶の銅と口の
境のくぼんだ位置が、一直線に連なっている。それに、引き気味に見ている視点からくる余白。
しかし、ただ単に見て描いただけではない。花瓶は口の部分が少し左に傾いでいる。壁と机の線も
ほんの少し左下がりだ。そして、ほとんど壁の色に溶け込んでいる、左奥にある直方体の上面の
色のように、ギリギリ色数を抑えた全体の色調。それらすべてが合わさって、画面を構成している。
見ていて思い出した・・・・「何もたさない、何もひかない」。昔流行った高級ウイスキーのキャッチコピーだ。
そう、モランディの作品には「スキ」がない。そこからくる安心感、安堵、静寂、落ち着き・・・・
もし、あなたが、疲れた心を癒したいなら、モランディの作品を眺めるがいい。
アートセラピスト、それがジョルジョ・モランディ・・・・・
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