2016.10.21 信ずる者は救われる
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東京写真美術館で開催されている杉本博司の「ロストヒューマン」を観た。
会場を二つに分けて、本題の「ロストヒューマン」と、新作の「廃墟劇場」と「仏の海」を別会場で展開する
構成だった。「海景シリーズ」を観てからの杉本写真のファンとなったワタクシ。本題の「ロストヒューマン」は
フランスで開催された記事を美術手帖で読んで予習していくほどの力の入れよう。その期待感はこれまでの
展覧会とは気合の入れようも違うというもの。気合を入れていた割には、和歌山の田舎からのお上りさん、
会場入口がわからず迷ってしまって、入口にたどり着くまで疲れてしまった。

さすが世界の杉本。見学者の年齢層や国籍もバラエティに富んでいて、平日だというのに結構な混みよう。
さて、展覧会の構成は<今日 世界は死んだ もしかしたら昨日かもしれない>という一文を軸に文明の終
焉を妄想した33のショートストーリー。インスタレーションという美術表現ではあるが、素人さんにはそんなこ
とは分からない。平たく言えば、風化したトタンをパーテーションに使って廃墟風にした小部屋に、骨董蒐集
で集めた物品と自作品をレイアウトした展示、と言ってもいい。こんなことを書けば身もふたもないが、現代
作家の中で、最もポピュラリティのあるアーティストとして認めざるを得ない見ごたえのある展覧会だった。
「最もポピュラリティがある」とはどういうことかというと、アートを見る、という体験の少ない人にとっても、退
屈しない飾り方をしているし、日本人は日本人として興味を引く内容だし、外国人にとっては「異文化」を見ら
れる魅力があるし、観ながら、いつのまにか現代社会の危うさを感じさせる社会性もあるアートだし、杉本の
「趣味のよさ」や彼の集めた骨董品の貴重さに感心させられるし、もちろん杉本写真の現物を庶民が見られ
る大変貴重な機会でもある・・・という、見に来た人間すべてに行き届いた配慮がされた意味で「最もポピュラ
リティがある」展覧会と表したい。もう、まったく世界をまたにかけたアーティストのエンターテイメント魂。
なにより、小難しいコンテンポラリアートを優しく提示し、誰でもが楽しめるところが凄い。
もしかしたら、事前に何も予習せずに見に行く方がインパクトが強いかもしれない。

この「ロストヒューマン」が今回の展覧会の第一部だとすると、「廃墟劇場」と「仏の海」は第二部だ。
実はアタクシの本当の目的はこの第二部。特に「仏の海」の実物を見たかったのだ。
体育館の広さのある会場を斜めに仕切り、入口付近に展示された9点の新作「廃墟劇場」と対をなすように、
その裏に展示されていた三十三間堂の千体仏を撮影した「仏の海」には静かに感動した。
第一部が人気なのはわかるが、第二部のこのスペースは閑散としていて、入ってきた人も足早に通り過ぎて
いく。人気の少ない暗がりの中のほのかなライティングに浮かび上がる千体仏は、「平安人が見たであろう
千体仏を、現代によみがえらせる」という杉本が試みたその仏の姿がそこにあった。アタクシは杉本博司の
作品に感動したのではなく、末法の世に出現した千体仏に感動したのだ。

今、この記事の参考にと美術手帖のサイト(http://bitecho.me/2016/09/02_1127.html)を読んでいると、
「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」でキーワードとされている33という数字はこの三十三
間堂から引用されている。杉本はこの作品について「滅亡の33話を3階で見て、実際に滅びていく姿を2階の
『廃墟劇場』で見て、裏側を見ると千体仏が待っている。救われて帰っていただくということです」と構成の狙
いを明かした。・・・という記事が目に留まった。
いや、まいった。してやられた。アタクシは杉本博司に救われたのだ。

2016.07.30 ストラツク!バッターアウト!
まったくの予備知識なしに、知らなかった事に出会うと、良きにつけ悪しきにつけ何がしかの興奮状態に
陥る。悪しきことへの出会いはご免こうむりたいが、良き場合は大歓迎。しかし、なかなか出会うことはない。
新しい音楽や美術関係の出会いは、こちらの長年の嗜好というものがあるから、自分の好みに傾倒しがち
でこちらから探しに行くことが多く、あちらからやってくることは非常に少ない。だから、歳をとると、新しい作
家(アーティスト)と出会って興奮する、ということも少なくなってしまった。

DIC川村記念美術館で開催されている「サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-」を見に行って
きた。見に行ってきた、というと自ら行ってきたように聞こえるが「連れて行ってもらった」というのが正しい。
連れて行ってもらたったから、この企画展もほとんど下調べもせず、どんな作家なのかさえ知らない、とい
うほぼ予備知識なしの真っ白な状態での鑑賞となった。そして、興奮した。アタクシ的、ド・ストライク!
作家の概要は美術館のサイトを見ていただくとして、「そうそう、こんな感じで見たいんだよ」っていう写真。
写真家の写真じゃないから、テーマを持った具体的な意味のあるモチーフでない。モチーフは身の回りの
モノ。写真に写されたその他愛もないモノをどう見ているか、というところに共感し、興奮した。

ポラロイドカメラで撮影しているモチーフは、ピントが合ってなく、具体的な形さえわからないまでにボケ
た写真さえある。一つのモチーフを焦点距離を合わさずに前後して撮ったりもしている。撮っている対象
になんだかの意味や説明的な要素もなく、作者は視点のズレを楽しんでいるかのようだ。そんな遊び、
無意識にしませんか?例えば、目の前のコップをある距離で見るとピントが合ってますよね。その合った
ピントのまま視点をどんどん近づいてみたり、離してみると、その図像がピンボケの状態になる。そんな
遊び。アタクシはド近眼だから、ピントの合う幅が狭く、裸眼でモノを見るとこんなことになるんですけど。
そういう観方をポラロイドカメラで撮影している。それを、厚紙にカラードライプリントという手法でプリント、
図像の下にはサインとエディションナンバーが鉛筆で書かれていて、写真というより版画に近い作品。
「ドライプリント」というのはどんな手法だろう。ネットで調べてもズバリの答えは見つからない。
作品を子細に見てみると、オフセット印刷?現代的機械ならレーザープリンターで刷った感じ。
もう、そこまですると「写真」ではないのかもしれない。いや、プリントしたインスタグラムか?
サイトの解説を引用すると・・・
・・・・夢の記憶をたどるような親密でもどかしい視覚体験を促すものです。自らを「ロマンティックな象徴
主義者」と称したトゥオンブリーは、現実を主観のヴェール越しに写すため、あえて作品に盲目性を取り
込んだと考えられます。・・・・
図録の解説を読んでいると、この作家は暗闇の中で作品を制作する、というようなことをしていたそうな。
見ることの難しい状況で図像を作るということは、見えないことで、脳みその中のイメージを表出させよう
とすると、主観的要素が生まれる、というか頼らざるをえないというか。、その延長線上でカメラの図像を
使うとなると、このような写真になるということか。
それにしても、これら作品が、B4サイズ程のシンプルな額縁に入れられ、広々とした白い会場に100点
ほど展示されていたが、一つ一つの作品は小さくても、十分見ごたえのある展示で、いつまでもいたい、
と思える展覧会は久しぶりだった。というか、全部欲しい。そして、最後に作者の言葉が書かれていたが、
これがまた良い・・・・・
【歳をとると、始まりの事柄に戻っていかなければならないことがわかってきます。あるいは感傷的になれる
ものや何かへと。色々な意味で人生が閉じ、物事が簡単にはいかなくなり、わくわくすることもなくなると、
まあ、どうあらわしてもらってもかなわないですが、そうなるとノスタルジックになっていくものです。】

・・・・うーむ、ストラツク!バッターアウト!・・・・まいりました。

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2016.05.16 アタクシリアルとダレカノリアル
「絵画」は、カメラという機械を通して表現する「写真」より強い・・・・と先日の記事に書いたが、
自分で書いていて「ほんまかいな」と思い直した。
そう思ったのは、待ち合わせ場所で、ボーっとその場にいる人々を見ていてのこと。

アタクシはその人々のことは知らない。で、そのシーンを具象絵画で表そうとしよう。
アタクシは、構図を決め、下絵を描き油絵の具で描き始める。描きながら、きっとこう
思いながら描くはずだ・・・・この人物達はどんな性格をしていて、どんな人生を送ってきて、
今何を考えているのだろう?・・・・そんなそれぞれの個性を、アタクシの妄想で描き上げる。
つまり、想像力というやつが邪魔をしてリアルには描けない。
そこには、(写真のように)いくら精細で超リアルなシーンを描こうとも「現実」のリアルではない。
アタクシの脳みその中にある資料を基にした、そこにある記憶を再現しただけのことだ。
画家は自らの想像を長い時間を費やし、そのシーンを再現する。

ならば、そのシーンを写真で再現したとしよう。ただ、撮りました、というやつだ。
途中経過はシャッタースピード分しかない。シャッターを切ろうと判断した一瞬の出来事。
そこに写っているのは、リアルに、その時のそれぞれの性格や人生や思いであるはずだ。
そして、そこにあるリアルは写っているそれぞれのリアル。シャッターを切った人物の想像の
つけ入るすきはない。レンズという思考のないガラス球があるだけだ。
冷徹なガラス球を通してのみ表せるもの、絵画にはない写真の強みはそこだ。

絵画は「アタクシリアル」で、写真は「ダレカノリアル」・・・・なのかもしれない。
そこで、本日の結論。「絵画」は、カメラという機械を通して表現する「写真」より強い・・・・と
思ったのは、「物品」としての存在感。しかし、イメージの存在感は双方引き分けとしよう。

2016.05.05 がんばれ、国立近代美術館
細見美術館から歩いて5分、京都市立美術館のむかいにある京都国立近代美術館。
市立美術館が入場者の列が絶えないのに比べ、人々でごった返している、というわけでもない。
喧噪の岡崎公園の中では、閑散としたエントランス風情は、いつものことながら心配になる。
今、開催されている展覧会名が「オーダーメイド:それぞれの展覧会」
・・・・・ これじゃ、客は来ないよな― ・・・・・

HPに概略が載っているが・・・・
美術館で展示された作品は、それが置かれる空間やともに並ぶ別の作品との思いがけない出会いを
通して、さまざまな意味を生みだし、鑑賞者を豊かな解読の世界へと誘ってくれます。
「オーダーメイド:それぞれの展覧会」は、鑑賞者が順路やテーマを選択しながら鑑賞することで、
展覧会の見え方が変化するプログラムです。 ここでは当館のコレクションを使って、作品同士がどの
ように関係づけられ、作品の〈配列=オーダー〉がどのように決定されうるのかを体験を通して考えます。
「人生は選択の連続」、観る人それぞれが自分なりの物語を見つけながら展覧会(あるいはその見方)を
オーダーメイドするために、美術館に足を踏み入れたところからゲームは始まります。
・・・・・ これだけじゃ、どんな展覧会なのか、わかんないよな― ・・・・・

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そこでこちらも、もうひと踏ん張り、リンクされている出品リストをチェックし、
出品されている作品リストを見て、やっと観に行く気になった。(失礼な言い方だが)
作品は一部を除き、すべて京都国立近代美術館所が持っている作品ですが、さすが国立。近現代
美術に属するそれぞれの作品の質も高く、見ごたえのある展覧会だった。
「国立」と名のつく近代美術館は東京竹橋にある美術館と、ここの二か所。公立の美術館としては
老舗。老舗ゆえのしがらみが強いのか、どうも一般受けする企画が少ないと感じるのはアタクシだけ?
国立西洋美術館は重鎮だから横に置いといて、同じ「国立」がついていても、国立新美術館や国立
国際美術館は、キャッチ―な企画で興味を引く展覧会が多いと感じるのはアタクシだけ?

それぞれの「国立」に「役割分担」、というのがあるのだろう。
ここの展覧会の履歴を見てみると、幅広く様々なジャンルの企画展が開かれているのがわかるし、
前に訪れたのはもう5年前の青木繁、こちらが興味を持っているジャンルの展覧会が少ないから、
行く機会が少なくなってしまうのかなー。(向かいの市立美術館は年に一回は行ってるような)

まあ、「ゲームがはじまる・・・」という企画は理解できなかったにしても、おもしろかったよ。
画像左上: クシシュトフ・ヴォディチコ 「もし不審なものを見かけたら・・・・・・」 ヴィデオインスタレーション
画像右上: ウォルフガンク・ティルマンス 「Kyoto Installation 1988-1999」 インスタレーション
画像左下: 笠原恵実子 「 MANUS-CURE」 ポリエステル・フィルムに塗ったネイルカラー1050色
画像右下: 村岡三郎 「空質―値」 紙、木炭、朱
写真も撮れるので気に入った作品をいくつか撮影した。

あと、久しぶりにデュシャンの便器(泉)も見られた、それに静かに観られたから良かったよかった。
しかし、展覧会のハシゴは疲れるなー・・・以上!


2016.05.05 ゴールデンウィークの京都で高級なものを見た
ゴールデンウィークの京都は観光客であふれかえっている。
どこへ行っても、人の塊が右往左往していて、それはもうてんやわんやの大騒ぎである。そして、芸術も
負けてはいない。岡崎公園にある京都市美術館では、ここぞとばかりに様々な展覧会が開かれ、モネ、
ルノアールの印象派のスーパースター二人の展覧会、それに二科(関西)展、京都墨彩画壇展、
新創美術展、別館では京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE)と、これ全部観たらへとへとになって倒れる
だろうなー、と思うぐらいの物量作戦で、「まっ、たまには芸術鑑賞も良いよね」と考える観光客目当ての
怒涛の展覧会ラッシュだ。
しかし、そんなことするとアタクシは倒れてしまうので、京都市美術館は完全にパスし、その近くにある
細見美術館という私立美術館で開かれている「杉本博司 趣味と芸術—味占郷」展と、京都国立近代
美術館の「オーダーメイド:それぞれの展覧会」という、二つの展覧会をゆっくりと観てきた。
(主目的はみやこめっせ(京都市勧業館)で開かれている、春の古書大即売会に行くことなんだけどね)

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細見美術館とは実業家・細見良氏から三代にわたって細見家が蒐集した縄文・弥生時代の古代から
江戸時代、明治大正の近代までの日本美術・工芸を幅広く蒐集したものを展示している小さな美術館。
存在は知っていて、外観もおしゃれだから建築物としては興味を持っていたのですが、なんせ蒐集品が
渋すぎて、入ってみようという気持ちにはなれなかったのが、わが師匠(勝手に)であるところの杉本博司
の展覧会であるからには無視はできまいと、はせ参じたわけです。そしてその展示内容は・・・・
『婦人画報』で連載された「謎の割烹 味占郷」の中で、杉本氏が各界の著名人をもてなすために、氏の
骨董趣味で集めた品々を組み合わせ、毎回そのゲストにふさわしい掛軸と置物を選んで床飾りをしたも
のを再現したものです。

いやー、おしゃれ、かっこいい、粋。・・・それに渋い!渋すぎ・・・・・
床の間に掛け軸と置物なんて、大衆にはなかなか縁のない芸術ですし、その空間に置かれた品々が、
ある意味(寓意)を持って置かれていることを読める文化的知識もないもんですから、恥ずかしい話です
が、見た目の雰囲気が良い、たたずまいが良い。
例えば、 「真摯なる領域」と題された作品は、軸に鎌倉時代に描かれた明恵上人像、一幅と、置物に
鎌倉時代に木造彩色で作られた春日若宮御正体(神鹿の像)に、現代作家・須田悦弘が角と鞍と榊を
木彫彩色でしつらえ、その榊の上に鎌倉時代に作られた、小さな円形の板地に描かれた五髻文殊菩薩像
を置いた「オブジェ」ともいえるモノを組み合わせた作品。(こんなこと書いたってイメージわかないよね)
(http://www.emuseum.or.jp/exhibition/ex047/img/artworks07.jpg)を見てくれ。

ただ単に貴重な骨董品を組み合わせた床飾りなら、それほど興味を持ってみることができなかっただろう。
たぶん、「ふーん、なんか高級ね」で終わるところを、現代作家・須田悦弘の作品を紛れ込ませた例のように
近現代の品も平気で組み合わせたり、軸の装丁に念が入っているし、置物の下の台座のディティールが
面白かったり、さすが杉本博司。すべての組み合わせが、子細に行き届いていて静かに驚かされる。

これを「高級」というのだろう。こういう趣味の床飾りを愛でることのできる人たちを「セレブ」と呼ぶのだろう。
大衆であるアタクシは、この高級感あふれる床飾りを、展覧会という場で鑑賞し十分満足した。そして、この
ような床飾りを、本来の場で愛でることは死ぬまでないだろうと、大衆であるアタクシは少し卑屈になった。

追記
掲載した画像は会場3階にある茶室「古香庵」に特別公開されている杉本作品「華厳滝図」「月下紅白梅図」
両方見られるのは、会期内の祝祭日のみ。(エントランスフリー・会期は6月19日(日)まで)