2016.10.14 染みついた臭い
9月24日に国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が整備され開園されたのをご存じだろうか?
1983年に石室内の彩色壁画のひとつである玄武が発見されて、世間や学会から注目を集め、その後、調査
修復を経て、キトラ古墳壁画保存管理施設(キトラ古墳壁画体験館四神の館内)を中心として、その一帯が
公園として開園したのです。そのキトラ古墳壁画が一般公開されているのを知って見学に行ってきました。

こういうたぐいのモノは、展示室で、レプリカだのビデオ映像や原寸大写真なんかを見学して、なんとなく
見た気になって帰ってくることはあったのだけれど、今回のように「期間限定」「ほんまもん」ともなると、
ありがたみがわく。で、ありがたく約10分、現在修復が完了している石室の天井(天文図)、南壁(朱雀他)、
西壁(白虎他)をガラス越しに見学させてもらったわけですが、石室からはぎ取られ、一枚のフレスコ画
(漆喰に描かれているから)として見るしかないから、色顔料や金泥が長い年月が経っても残っているのを
見ることができた、というしょうもないことには感心はしたが、展示室にあった石室のレプリカ(内部も再現さ
れている)に較べると、見た目には、1300年もの月日が経ったリアリティを感じることはできなかった。
そこで、アタクシは無理やくたにリアリティを感じようと、ガラスに近づいて臭いを嗅いでみると、洞窟なんかで
臭うカビ臭い石の臭いがふとした。ふとした気がしたのでもう一度臭ってみるとやっぱりそのような臭いがする。
「おお、これは1300年のあいだに石室壁画に染みついた臭いだ」と確信したアタクシは隣にいた連れ合いに
「・・・・のような臭いしない?」と問うてみると、「しないよ、きっと周りにいる人達の加齢臭よ」(確かに見学に
来ていたのはアタクシのような世代の人ばかりだ)と一蹴されてしまった。諦めきれずに、近くにいた関係者に
問うてみると「そんなことはありません」とニコニコしながら全否定され、アタクシの1300年のリアリティの思い
はあっという間に砕け散ってしまった。

絵画としては繊細な線描が印象的で、筆を用いた絵画手法が技術的に完成されていて、人間の手業は古代人
だろうが現代人だろうが大差ないんだな-、と感心した。できることなら、1300年前のできたてほやほやの石室
内を再現してくれたブツを見てみたいとも思った。
今回の公開は第一回。第二回、三回とありそうなので、興味のある方はぜひどうぞ。
そして、もし、「1300年のあいだに石室壁画に染みついた臭い」を感じた方はご一報ください。(笑)

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展示室にあった石室のレプリカ、公開されている壁画は当然撮影禁止です
2015.03.25 トレースする人
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「浄瑠璃寺の春」のトリビュートというより、トレースした、と言う方が正しいかもしれない。
堀辰雄は春以外にもこの地を訪れている。
「樹下」という文章に・・・・・
 その藁屋根(わらやね)の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径(こみち)のかたわらに、一体の小さな
苔蒸(こけむし)た石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。
いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとはもってのほかだが、――いかにもお粗末なもので、
石仏といっても、ここいらにはざらにある脆(もろい)焼石、――顔も鼻のあたりが欠け、天衣(てんね)な
どもすっかり磨滅し、そのうえ苔がほとんど半身を被(おお)ってしまっているのだ。右手を頬にあてて、頭を
傾かしげているその姿がちょっとおもしろい。一種の思惟象(しゆいぞう)とでもいうべき様式なのだろうが、
そんなむずかしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。
・・・・・という部分があるが、これはこの周辺に点在する石仏を見て歩いた様子だ。

アタクシはこの日、できるだけこの山里の古い記憶を訪ねようと試みた。それが今回の目的の一つだ。
作家の足跡をトレースし、山道をのんびりと歩きながら、今はもう散策コースのメインスポットにもなっ
ている石仏を自分の視点を交えて撮影した。昨日の記事に載せた画像は、作家が「見たであろう情景」を
イメージして撮影したものを抜粋したものだ。
見るものの形は、作家が訪ねた昭和初期とは様相が変わっているけれど、この土地の穏やかさや、
春の陽気のほのぼのした木々の様子は何も変わっていないんじゃないか、と思いながら・・・・。

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2015.03.25 道すがら、ひとり思索する
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2015.03.25 トリビュート浄瑠璃寺の春
浄瑠璃寺の春

 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた
蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい
気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(やっと)たどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度
いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになっ
た。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃(ひもも)の木のうえに、突然なんだかはっとする
ようなもの、――ふいとそのあたりを翔かけ去さったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自
分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆さびついた九輪くりんだった
のである。
 なにもかもが思いがけなかった。・・・・・

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FUJI X-E1 with XF35mmF1.4 R
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2015.03.17 教養の楽しみ
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FUJI X-E1 with E・Zuiko Auto-S 38mm f2.8

夜の宴会で本好きの方と話す機会があり、話の流れで仏教についての本の話になった。
その方は、とある哲学者の名前を出しながら、その学者の流れをくむ別の学者の本を貸してくださった。
その話を同僚にすると、彼もさっそく宗教を理解するうえでの基礎的な本を貸してくれた。ありがたいことだ。

なぜ、そんなことになったかというと、アタクシは仏教について、ほぼ無知だからだ。
仏教にほぼ無知なアタクシが今読んでいる本が、折口信夫と堀辰夫の奈良の寺社仏閣、およびそこに安
置されている仏像を訪ねる「旅モノ」のエッセイ。温かくなったら、この二人が訪ねた場所を訪ねたいと思
っているのだ。しかし、読んでいても、ちんぷんかんぷんなのだ。
まあ、奈良の神社仏閣は事あるごとに行っているので、ビジュアル的な部分は読んでいて想像できるのだけれど、
建立の背景だとか、意味や、例えば、阿弥陀如来に対する当時の人々の思いなんて、こちらは仏教的教養がない
から、作中にそんな深い意味が書いてあっても、作者の思いにほぼ共感できない。つまり、根本が解ってないと仏
像や仏閣の本当の楽しみ方がわからない、それに二人の作家の思いとも共有できない。
それじゃー、行っても面白くないでしょ?
堀口辰夫の「浄瑠璃寺の春」を体現したい。だから、仏教という宗教をもっと知ろうと考えたわけです。